対話する真理

抽象概念は「存在する」のか? 哲学と科学が探るその実体

Tags: 哲学, 存在論, 科学哲学, 数学の哲学, 計算機科学の哲学

はじめに

私たちの思考や科学の研究活動において、「数」や「論理法則」、「アルゴリズム」、「理論」といった抽象的な概念は不可欠な要素です。これらは具体的な物質のように五感で捉えることはできませんが、確かに思考の対象となり、現象を記述し、技術を駆動させます。では、これらの抽象概念は、一体どのように「存在している」のでしょうか。単なる人間の頭の中の産物なのでしょうか、それとも何らかの形で独立した実体を持っているのでしょうか。

この問いは、古くから哲学の中心的なテーマの一つであり、同時に現代の科学、特に数学、物理学、計算機科学といった分野においても、その対象の性質を考える上で避けて通れない問いです。本稿では、この「抽象概念の実在」というテーマに対し、哲学と科学がそれぞれどのように迫り、また両者がどのように対話しうるのかを探求します。

哲学の視点:抽象概念の存在論

哲学における「抽象概念の実在」を巡る議論は、古代ギリシャのプラトンに遡ります。プラトンは、個々の具体的な事物(美しい花、正しい行いなど)を超えた、普遍的な「イデア」(形相)が真に存在すると考えました。例えば、「美しさ」というイデアは、あらゆる美しいものの原因であり、個々の美しいものはそのイデアを分有することで美しいのだと捉えたのです。この立場は、抽象的な普遍者(概念や性質)が、具体的な個物から独立して存在する、一種の実在論と見なすことができます。特に数学的対象については、プラトニズムと呼ばれる立場があり、数や図形は人間の認識とは独立して存在する実体であると考えます。

これに対し、アリストテレスは普遍者は個物のうちにのみ存在すると考え、中世哲学では普遍者を巡って実在論、概念論、唯名論が対立しました。

近代以降も、この議論は形を変えて続きました。例えば、数学の哲学では、数学的対象(数、集合など)が人間の思考から独立して存在する実体だと考える立場(数学的プラトニズム)と、数学は人間の思考や言語の規則に基づいた形式体系であると考える立場(形式主義)、あるいは人間の構成活動によって創り出されると考える立場(構成主義、直観主義)などがあります。これらの立場は、数学的な真理が「発見」されるものなのか、それとも「発明」されるものなのか、という問いにも繋がります。

哲学は、このように抽象概念が持つとされる性質(普遍性、必然性、非時間性など)を分析し、それがどのように存在しうるのか、あるいは存在しないとすればその意味は何か、といった問いを深く掘り下げます。思考実験や概念分析を通じて、私たちの直観や言語の裏にある存在論的な仮定を明らかにしようと試みます。

科学の視点:抽象概念の運用と発見

一方、科学はしばしば、抽象概念を「実在」するかどうかの存在論的な問いに正面から答えるよりも、それを如何に有効に運用し、現象を記述・予測し、新たな知識を構成するかに焦点を当てます。しかし、その過程で科学は抽象概念の実在性に関する興味深いいくつかの側面を提示します。

数学と物理学

物理学は、自然法則を記述するために数学という抽象的な言語を驚くほど有効に用います。ニュートンの運動法則、マクスウェルの方程式、量子力学のシュレーディンガー方程式などは、純粋に抽象的な数学的概念を用いて物理的な現実を極めて正確に記述します。

ここで問いが生じます。なぜこれほどまでに数学は物理的世界を記述するのに適しているのでしょうか。物理学者は数学的な構造を「発見」しているのでしょうか、それとも単なる便利な「道具」として「利用」しているだけなのでしょうか? 数学的な対象(例えば、場の理論における場や、ヒルベルト空間のベクトル)は、物理的実体とどのように関係しているのでしょうか。多くの物理学者は、自らの理論が数学的に洗練されていることに美しさや真実の手がかりを見出しますが、これはある種の数学的実在論、あるいは数学が世界に内在する構造を捉えているという信念を示唆するかのようです。

計算機科学と情報

計算機科学は、アルゴリズムやデータ構造、プログラムといった、本質的に抽象的な対象を扱います。アルゴリズムは特定の計算手続きを定めたものであり、それを実装する物理的なコンピュータやプログラミング言語からは独立した概念として存在します。ソートアルゴリズムやグラフ探索アルゴリズムは、特定のハードウェアやソフトウェアに依存せず議論され、分析されます。

ここで問いとなるのは、アルゴリズムのような抽象的な「手続き」や「情報」そのものは、どのように存在すると言えるのか、ということです。それは人間の思考の中にだけあるのか、それとも物理的な媒体に記録されたときに初めて存在すると言えるのか、あるいは情報自体が物理的な基盤から独立した何らかの存在論的な地位を持つのか? チューリングマシンの概念は、物理的な制約を超えた抽象的な計算可能性の限界を示唆し、情報そのものの本質に関する哲学的な議論を活性化させました。

哲学と科学の対話

哲学と科学は、抽象概念の実在という問いに対し、異なるアプローチを取りながらも、互いに問いかけ合い、視点を提供し合う関係にあります。

科学は、抽象概念を用いて現実を記述し、予測し、操作する圧倒的な成功を示します。この成功は、哲学的な実在論(特に数学的プラトニズム)を支持する強力な根拠となり得ます。例えば、数学的な構造が物理現象をこれほど見事に説明できるのは、数学的な真理や対象が、人間の心とは独立した形で何らかの「実体」を持っているからではないか、と科学者は直観的に感じるかもしれません。物理法則や計算可能性といった抽象的な枠組みが、宇宙全体にわたって、あるいは異なる実装においても普遍的に成り立つかのように見える事実は、唯名論的な見方だけでは説明しきれない側面を持っているように思われます。

一方で、哲学は科学に対して、その基盤となる抽象概念の存在論的な地位について問いを投げかけます。科学者は日常的に数式を扱い、アルゴリズムを設計し、理論を構築しますが、それらが一体どのような「もの」であるのかを深く問うことは稀かもしれません。哲学は、「物理学者が扱う数学的対象は、プラトンが考えたイデアのようなものなのか?」「アルゴリズムは脳内の電気信号やコンピュータの回路とは全く別の種類の実体なのか?」「科学理論が記述する『法則』は、単なる人間の思考の便利な枠組みなのか、それとも世界の構造そのものなのか?」といった問いを提示し、科学者が自らの研究対象に対する見方を再考することを促します。

例えば、研究開発において、ある数理モデルやアルゴリズムを設計する際、そのモデルが記述しようとしている「対象」や「関係」は、単なる分析ツールとして割り切るべきものなのか、それとも何らかの意味で独立して存在し、私たちが「発見」すべきものなのか、という問いは、アプローチや創造性に影響を与えるかもしれません。もし数学や情報が単なる形式体系に過ぎないとするなら、私たちは自由にルールを構築し、発明に焦点を当てるでしょう。しかし、もしそれらに何らかの実体があるとすれば、私たちはその実体を「見つけ出す」ことに重きを置くかもしれません。

この対話はまた、科学の限界を浮き彫りにします。科学は、数学やアルゴリズムを用いて現象を記述し、その振る舞いを予測できますが、「なぜ」数学がこれほど有効なのか、「情報」とは本質的に何なのか、といった根源的な問いには、科学的手法だけでは直接答えを出すことが難しい場合があります。ここで哲学的な考察が、科学的知見をより広い文脈の中に位置づけ、その意味や限界を理解するための手助けとなります。

結論:未解決の問いと新たな視点

抽象概念の実在という問いは、哲学、数学、物理学、計算機科学といった多様な分野にまたがる根源的な問いであり、単一の明確な答えはまだ見出されていません。科学は抽象概念を強力な道具として用い、その構造や応用に関する深い知見を提供しますが、それらがどのように「存在している」のかという存在論的な問いに対しては、哲学的考察が不可欠な視点をもたらします。

この哲学と科学の対話は、私たちが日常的に、あるいは専門分野で当然のように扱っている数式や論理、アルゴリズムといった抽象的な対象に対する私たちの理解を深めます。それらを単なる便利なツールとしてだけでなく、何らかの意味で世界に内在する構造やパターンを捉えている可能性のあるものとして捉え直すことで、新たな発想やより深い洞察が得られるかもしれません。

ご自身の研究活動で日々扱っている数式や理論、プログラムの背後にある抽象的な「何か」について、哲学的なレンズを通して改めて考えてみてはいかがでしょうか。それが単なる構築物なのか、発見すべき実体なのか、あるいは全く別の何かなのか。この問いは、真理への探求において、科学的な手法だけでは到達できない新たな地平を開く可能性を秘めているのです。