データ駆動と理論構築:科学の方法論をめぐる哲学との対話
現代科学を支える二つの柱:データと理論
現代科学、特に自然科学や計算科学の分野では、大量のデータを収集・分析し、そこから知見を引き出す「データ駆動型アプローチ」が目覚ましい成果を上げています。ビッグデータの利用、機械学習の進化、高性能計算能力の向上などがこれを後押しし、これまでは見えなかったパターンや相関関係が次々と発見されています。これは、長らく科学の中心であった、少数の原理から出発して現象を説明・予測しようとする「理論主導型アプローチ」とは異なる知の探求の形を示唆しているように見えます。
では、科学は今、データを蓄積し分析することのみに注力すれば良いのでしょうか。あるいは、依然として普遍的な理論の構築を目指すべきなのでしょうか。この問いは、単なる方法論の選択を超え、「科学的知識とは何か」「真理にどのように迫るのか」という根源的な問題に繋がります。本記事では、このデータ駆動と理論構築という二つの科学的方法論に光を当て、それぞれのアプローチが真理にどのように迫るのかを比較しつつ、そこに科学哲学がどのような問いを投げかけるのかを探ります。
科学の視点:データから理論へ、理論からデータへ
科学史を振り返ると、理論主導型アプローチが支配的であった時代が長く続きました。例えば、ニュートン力学は少数の運動法則と万有引力の法則という理論体系から出発し、天体の運行や地上の物体の運動を統一的に説明・予測することを可能にしました。熱力学、電磁気学、相対性理論、量子力学なども、基本原理や方程式から出発して、広範な現象をカバーする理論として発展しました。このアプローチの強みは、少数の原理で多様な現象を「説明」できること、そして未知の状況に対しても「予測」を立てやすい点にあります。しかし、理論構築には高度な数学的、論理的思考が必要であり、また、理論が扱うのは理想化されたモデルであることが多いため、現実の複雑さとの間に乖離が生じることもあります。
一方、データ駆動型アプローチは、観測や実験で得られた大量のデータから直接的に知識やパターンを抽出することを重視します。例えば、ゲノム科学における遺伝子配列の解析、気候科学における膨大な気象データの分析、あるいは現代の機械学習モデルによる画像認識や自然言語処理などは、このアプローチの典型例です。データ駆動の強みは、事前に厳密な理論を必要とせず、データそのものが持つ構造や相関関係を発見できる可能性、そして特に予測タスクにおいて高い性能を発揮しうることです。しかし、データから得られた知見が必ずしも現象の「なぜ」を説明するわけではないこと、そしてデータの質や量、分析手法によって結果が大きく左右されるという限界も抱えています。また、データに内在するバイアスが結果に反映される可能性も指摘されています。
現代では、これら二つのアプローチは排他的ではなく、相互に影響を与え合っています。データから発見された予期せぬパターンが新たな理論構築のヒントになったり、逆に理論から導かれた予測を検証するために特定のデータを収集・分析したりといった連携が見られます。例えば、素粒子物理学における大型加速器実験で得られる膨大なデータは、既存理論の検証や新たな理論の探求に不可欠であり、理論的な予測に基づいて実験計画が立てられます。計算科学においては、理論モデルに基づいたシミュレーションから大量のデータを生成し、それを分析することもあります。
哲学の視点:知識の獲得と真理の性質を問う
科学哲学は、科学がどのように知識を獲得し、真理に迫るのかという方法論や認識論について深く考察してきました。データ駆動と理論構築という二つのアプローチは、科学哲学における古くからの議論、特に帰納法と演繹法に関する問いと関連が深いと言えます。
帰納法は、個々の具体的な事例やデータから一般的な法則や理論を導き出そうとする推論方法です。データ駆動型アプローチは、大量のデータからパターンを見つけ出し、それを一般的な知見として提示する点で帰納的側面が強いと言えます。しかし、哲学的には、いくら多くの事例を観測しても、未来の出来事が必ずしも過去のパターンに従うとは限らない(帰納の正当化問題)という根本的な課題が指摘されてきました。デヴィッド・ヒュームは、過去の経験から未来を推論することに論理的な必然性はないと論じました。
一方、演繹法は、一般的な原理や前提(理論)から論理的な推論によって個別の結論や予測を導き出す方法です。理論主導型アプローチは、確立された法則や仮説から出発して現象を説明・予測する点で演繹的側面が強いと言えます。哲学者のカール・ポパーは、科学理論は帰納的に検証されるのではなく、演繹的に導かれた予測が実験や観測によって「反証」されない限り暫定的に受け入れられるべきだと主張しました(反証主義)。理論は仮説であり、データを集めてそれを支持する証拠をいくら積み上げても真理を証明することは難しく、むしろたった一つの反例によって理論は棄却されうると考えたのです。
データ駆動型科学の隆盛は、これらの哲学的な議論に新たな問いを投げかけます。例えば、非常に高い予測精度を持つ機械学習モデルは、それが現象の背後にある因果関係を「説明」していなくても、科学的知識として価値があるのでしょうか。相関関係の発見は、因果関係の探求を代替しうるのでしょうか。科学哲学における「実在論」(科学理論は世界の真の構造を記述していると考える)と「反実在論」(科学理論は観測可能な現象を説明・予測するための道具であると考える)の対立は、データ駆動モデルの解釈においても重要になります。データから得られたモデルは、世界の何らかの実体を表しているのか、それとも単に観測データをうまくフィッティングする予測器に過ぎないのか、といった問いです。
科学と哲学の対話:真理への多角的なアプローチ
データ駆動型科学と理論主導型科学は、それぞれ異なる方法で真理に迫ろうとします。データ駆動は「何が起きているか」を捉えることに長け、未知のパターンや相関を発見する可能性を秘めています。理論構築は「なぜそれが起きるのか」を説明し、普遍的な法則や因果関係を理解することを目指します。
哲学は、これらの科学的アプローチに対し、その根拠、妥当性、そして限界について問いかけます。データ駆動アプローチの時代において、哲学は「知識の源泉は何か」「真理の基準は何か」といった根源的な問いを改めて提起します。単なるデータ分析の結果を知識として受け入れる際の認識論的な課題、例えばデータの選択や解釈における人間の関与、モデルの「理解可能性」(interpretability)の問題などは、哲学的な考察を必要とします。
逆に、科学、特にデータ駆動アプローチから得られる知見は、哲学的な議論に新たな視点を提供します。例えば、人間の認知のメカニズムを理解しようとする認知科学や脳科学におけるデータ解析は、知識の獲得や推論に関する哲学的な理論(例えば、経験論や合理論)を検証したり、新たな哲学的な問い(意識や自己の本質)を提起したりする可能性があります。また、複雑なシステムから創発する現象をデータから捉えようとする試みは、還元主義と全体論に関する哲学的な議論に影響を与えるかもしれません。
結論:方法論の探求こそが真理を深化させる
現代科学におけるデータ駆動と理論構築という二つの強力なアプローチは、それぞれが異なる側面から真理に迫ります。データは世界の現象の断片を映し出し、理論はその断片を繋ぎ合わせるための枠組みや説明を提供します。どちらか一方のみで科学が完結するわけではなく、両者の相互作用と補完関係が、より豊かで確固たる科学的知識を築き上げる鍵となります。
そして、科学の方法論そのものに対する哲学的な考察は、科学者が自身の研究アプローチの強みと限界を深く理解し、より頑健な知識を構築するための重要な示唆を与えます。データから得られる知見を鵜呑みにせず、その根拠や妥当性を哲学的に問い直すこと、あるいは理論の射程や適用限界を意識することは、研究開発の質を高める上で不可欠です。
私たちが日々扱うデータや構築するモデルは、真理そのものではなく、真理への道のりの一部です。データが何を語り、理論が何を説明するのか。そして、それらはどのように組み合わされ、私たちを世界のより深い理解へと導くのか。この方法論を巡る問いは、科学者自身の探求の対象であり、哲学との対話を通じてその理解はさらに深まることでしょう。あなた自身の研究活動において、データと理論はどのような関係にあるでしょうか。新たな視点や解決策を見出すために、この二つの柱の関係性を改めて見つめ直してみてはいかがでしょうか。