対話する真理

「可能性」の本質:哲学と科学が問う潜在的現実

Tags: 可能性, 哲学, 科学, 可能世界論, 量子力学

導入:ありうる未来への問い

私たちは日々の生活や仕事において、「可能性」という言葉を当たり前のように用います。「この技術には可能性がある」「いくつかの可能性が考えられる」「最も可能性の高いシナリオはこれだ」といった具合です。特に、研究開発職として未知の領域を探求される方々にとって、「ありうる未来」「実現しうる状態」としての可能性は、思考の中心にある概念かもしれません。

しかし、この「可能性」とは一体何でしょうか。それは単なる思考上の構成物なのか、それとも何らかの意味で実在するものなのでしょうか。予測確率と「可能性」の間にどのような関係があるのでしょうか。哲学と科学は、それぞれ異なるアプローチでこの深遠な概念に迫ろうとしています。

本記事では、哲学が「可能性」をどのように問い、科学がそれをどのように捉え、モデル化しようとするのかを探ります。両者の視点を比較し、対話させることで、「可能性」という概念の本質、そして私たちの現実認識におけるその役割についての理解を深めたいと考えます。

哲学における「可能性」の探求

哲学において、「可能性」(potentiality, possibility)の概念は古くから重要なテーマでした。特に、アリストテレスは存在論の文脈で「デュナミス」(δύναμις、可能態・潜在態)と「エネルゲイア」(ἐνέργεια、現実態・現働態)を区別し、ものが変化する過程や存在のあり方を論じました。種子が植物になる可能性を持つように、現実に存在しないが、そのものの中に実現しうる性質や能力として「可能態」を捉えたのです。これは、単なる論理的な無矛盾性だけでなく、ある種の「潜在的な実在性」を示唆する視点と言えます。

近代以降、特に論理学の発展と共に、「可能性」は論理的可能性や認識的可能性といった側面から議論されるようになりました。ある命題が「可能である」とは、それが論理的に矛盾しないこと、あるいは私たちの知識の範囲で否定できないことなどを意味します。

20世紀後半には、様相論理学(modal logic)の発展に伴い、「可能世界意味論」(possible world semantics)が登場しました。これは、現実世界とは異なる「可能世界」という概念を用いて、様相概念(必然性、可能性など)の意味を捉えようとするものです。ある命題が「可能である」とは、少なくとも一つの可能世界においてその命題が真であること、と定義されます。可能世界論は、現実とは異なる様々な「ありうる状態」やシナリオを思考の対象とし、それらの論理的な関係性を分析するための強力なツールを提供します。哲学者や論理学者は、これらの可能世界がどのような性質を持つべきか、あるいはそもそも実在するのか(実在論 vs 反実在論)といった問いを探求します。

哲学は、「可能性」を存在、変化、知識、論理といった幅広い文脈で、その根源的な意味や、現実との関係性を概念的に明らかにしようとします。思考実験や可能世界論は、現実には観測できない「ありうる状態」について、厳密な議論を行うための枠組みを提供します。

科学における「可能性」の捉え方

一方、科学は「可能性」をどのように扱うのでしょうか。科学はしばしば、観測や実験を通じて得られる具体的なデータに基づき、世界の記述や予測を行います。この過程で「可能性」は、主に確率という形で定量的に扱われることが一般的です。

例えば、統計学や確率論は、事象の起こりやすさを数値で表現するツールを提供します。未来の出来事について「可能性が高い」「可能性が低い」と語る際、そこには過去のデータや理論に基づいた統計的な予測が暗に含まれていることが多いでしょう。これは、多くの反復可能な事象における頻度や、情報の不確実性を反映した認識の度合いとしての「可能性」と言えます。

物理学、特に量子力学は、「可能性」に独自の視点をもたらします。量子状態は、確定した一つの状態ではなく、複数の状態が重ね合わされた「重ね合わせ」の状態として記述されます。例えば、電子がある位置Aにもある位置Bにも同時に「存在する可能性」を持つ、という形で表現されます。観測が行われるまで、その状態は確定せず、観測によっていずれか一つの状態に収縮すると考えられています(ボルンの規則によれば、各状態に収縮する確率は波動関数の絶対値の2乗に比例します)。ここでは、「可能性」は単なる知識の不足ではなく、系の「実在」そのもののあり方に関わるように見えます。哲学者は、この量子的可能性が、古典的な確率や哲学的な可能態とどのように異なるのか、あるいは量子状態の重ね合わせは「現実に存在しないが、観測によって現実化しうる状態」の集合なのか、といった問いを投げかけます。

情報科学や計算可能性理論も「可能性」に関連します。ある問題が「計算可能である」とは、チューリングマシンなどの計算モデル上で有限時間内に解を見つけ出すアルゴリズムが存在する可能性を指します。ここでは、「可能性」は特定の計算モデルにおける「到達可能性」や「構成可能性」と結びついています。

科学は、「可能性」を特定の物理系、情報系、統計的データなどの範囲で、観測、測定、計算、統計的推論といった実証的・形式的な手法を通じて捉え、記述し、予測しようとします。それは、哲学が扱うような根源的な存在論的・論理的な可能性とは異なり、より限定された領域での「ありうる状態」やその確実性の度合いとして扱われることが多いです。

哲学と科学の「可能性」を巡る対話

哲学と科学は、「可能性」という概念に対して、異なる入り口からアプローチします。哲学は概念の根源や多様な様態を問い、科学は特定の領域における観測可能な事象や計算可能な構造としての可能性をモデル化・定量化しようとします。しかし、両者の間には豊かな対話の可能性が存在します。

例えば、量子力学における重ね合わせは、哲学的な可能世界論やアリストテレスの可能態の概念に新たな光を当てます。量子の重ね合わせは、単に私たちがどちらの状態であるかを知らないという認識論的な可能性ではなく、系が実際に複数の状態の「組み合わせ」として存在している、という物理的な実在に関する主張のように見えます。これは、「現実」とは異なる「潜在的な状態」の集合が、ある意味で「実在」しているのではないか、という哲学的な問いを刺激します。科学的な発見が、哲学的な実在論や可能態に関する議論をアップデートする契機となるのです。

逆に、哲学的な可能世界論や様相論理は、科学的な思考、特に理論構築やモデル選択において示唆を与える可能性があります。例えば、宇宙論における多元宇宙論は、私たちの宇宙とは異なる物理定数や法則を持つ「可能世界」の存在を論じる点で、哲学的な可能世界論と概念的な類似性を持っています。哲学的な枠組みは、科学者が新たな仮説を構築したり、既存の理論の射程を検討したりする際に、概念的な基盤や思考の方向性を提供するかもしれません。

また、人工知能における探索空間や、最適化問題における可能性空間の探索は、計算可能性理論と結びつきますが、同時に哲学的な「選択」「創造性」「自由」といった概念とも関わります。科学が効率的な探索アルゴリズムを開発する一方で、哲学は「ありうる選択肢」の中から何を基準に選び取るのか、その選択の自由はどこにあるのか、といった根源的な問いを投げかけます。

両者のアプローチは、互いの限界を補完し合う側面も持ちます。科学的なアプローチは、観測や計算が可能な範囲に限定されがちですが、その範囲においては厳密な検証と定量化を可能にします。哲学的なアプローチは、観測不可能な概念の根源や論理的な整合性を深く掘り下げますが、実証的な裏付けを得ることは困難です。この違いを理解し、互いの知見を参照することは、「可能性」という複雑な概念をより立体的に理解するために不可欠です。

結論:探求されるべき「潜在性」

「可能性」という概念は、哲学にとっては存在、変化、知識、論理に関わる根源的な問いであり、科学にとっては事象の確率、物理系の状態、計算の到達性といった形でモデル化・定量化の対象となります。両者は異なる言語を用い、異なるツールを使いますが、共に現実「以外の」ありうる状態や未来を探求するという点では共通しています。

研究開発の最前線で働く方々にとって、「可能性」は単に技術予測の数値としてだけでなく、自身のアイデアやプロジェクトが世界にどのような「ありうる未来」をもたらしうるのか、という創造的な問いと結びついています。哲学が提供する概念的な深掘りや、科学が提供する定量的な分析は、この「可能性」という広大な空間を認識し、探求するための強力な羅針盤となりうるでしょう。

あなたの専門分野における「可能性空間」は、哲学的にどのように位置づけられるでしょうか。科学的なモデルやデータは、その空間のどのような側面を明らかにしているでしょうか。この問いを続けることが、「ありうる」を「現実」に変えていく創造的な営みの鍵となるのかもしれません。