「表現」の本質:科学と哲学が探る世界の記述と概念の形
はじめに:世界を「表現」すること
私たちは世界を理解し、他者と共有するために様々な形で「表現」を行います。科学技術分野では、自然現象やシステムを数式、データ、モデル、あるいはコードといった形式で表現し、その構造や振る舞いを記述・予測・操作しようとします。一方、哲学は、世界のあり方、知識の構造、人間の経験などを、概念や論理、言語を用いて表現し、その本質を探求します。
一見すると、科学の「表現」は客観的な記述を目指し、哲学の「表現」は主観的な思考や抽象的な概念を扱うように見えます。しかし、「表現」という行為そのものの根源には、複雑な現実を何らかの形で単純化し、構造化し、理解可能な形式に落とし込むという共通の営みがあります。
本稿では、この「表現」というテーマを切り口に、科学と哲学がどのように真理に迫るのかを比較検討します。科学が重視する「表現」のあり方、哲学が探求する「表現」の深層、そして両者のアプローチが互いにどのような示唆を与え合うのかを探ります。
科学における「表現」:モデル化と記述
科学における「表現」の中心にあるのは、「モデル化」と「記述」です。科学者は観測データや実験結果に基づき、自然界の法則や現象のメカニズムを数学的なモデルや計算モデルとして構築します。例えば、ニュートンの運動法則は物体の運動を数式で表現したモデルであり、気候モデルは地球システムを数値で表現したものです。
この科学的な「表現」は、いくつかの重要な特徴を持ちます。
- 近似と抽象化: 現実世界は無限に複雑です。科学モデルは、その複雑性の中から特定の側面を選び出し、単純化(抽象化・理想化)して表現します。例えば、物理学では質点を仮定し、化学では分子を球として表現することがあります。これは、すべてを網羅するのではなく、特定の問いに答えるために必要な情報だけを「表現」の枠組みに取り込む行為です。
- 操作可能性と予測性: 科学的な「表現」(モデル)は、多くの場合、その操作を通じて現象を予測したり、制御したりすることを可能にします。モデルに初期条件やパラメータを与えれば、将来の状態を計算できる、あるいは特定の操作を行った時の結果をシミュレーションできるといった能力は、科学的知識の実用性の源泉です。
- 実証可能性: 科学的「表現」によって導かれる予測や帰結は、観測や実験によって検証可能であることが求められます。モデルの妥当性は、それが現実をいかに正確に「表現」できているか、そしてその「表現」が予測をどの程度成功させるかによって評価されます。
科学における「表現」は、このように現実の特定の側面を切り出し、操作可能な形式に落とし込むことで、世界の理解と制御を進めてきました。しかし、このアプローチには常に「何を表現から漏らしているのか」「表現されたものが現実そのものとどれだけ異なるのか」という問いが伴います。
哲学における「表現」:概念化と言語化
一方、哲学における「表現」は、主に概念と言語を通じて行われます。哲学者は、「真理」「存在」「知識」「意識」「価値」といった抽象的な概念を定義し、それらの関係性を言語や論理によって表現することで、世界の根本的な問いを探求します。
哲学的な「表現」の特徴は以下の通りです。
- 普遍性と本質の探求: 哲学は個別の現象を超えた普遍的な真理や概念の本質を問います。例えば、科学が「温度」を測定可能な物理量として表現するのに対し、哲学は「熱い」「冷たい」といった感覚が意味するものや、それが意識とどう関係するのかといった、より根源的な問いに対する概念的な「表現」を試みます。
- 言語と論理の厳密性: 哲学は概念の定義と言語の使用に厳密性を求めます。曖昧な言葉や矛盾した論理を排除し、思考を明確に「表現」することで、議論の精度を高めようとします。分析哲学における概念分析などは、この言語的な「表現」の精緻化を追求するアプローチと言えます。
- 経験と主観への接近: 哲学は科学が直接扱いにくい主観的な経験や価値判断といった領域にも踏み込みます。「意識のハードプロブレム」(意識の主観的な質的側面を物理的な脳活動からどう「表現」するか)などはその典型です。ここでは、個人的な経験や内省も「表現」の対象となりえます。
哲学における「表現」は、このように抽象的な概念を明確にし、言語と論理を用いて思考の枠組みを構築することで、世界の深層や人間の経験に意味を与えようとします。しかし、その「表現」は実証性に乏しく、概念の妥当性や言語の限界といった課題に常に直面します。
科学と哲学の「表現」の対話
科学と哲学の「表現」は、アプローチは異なりますが、互いに深く関連し、対話する可能性を秘めています。
科学的なモデルやデータの「表現」は、しばしば哲学的な問いを再活性化させます。例えば、脳科学が意識に関連する脳活動をデータで「表現」できるようになるにつれて、「意識とは何か」という哲学的な問いは、単なる思弁だけでなく、科学的な知見を踏まえたより具体的な議論として展開されるようになります。また、量子力学における粒子の状態を波動関数で「表現」することは、実在のあり方に関する哲学的な議論(実在論と反実在論)に新たな視点をもたらしました。
逆に、哲学的な概念分析や言語論は、科学が世界を「表現」する際の基盤や限界について重要な示唆を与えます。科学者が使う「法則」「対象」「システム」「データ」といった言葉や概念そのものは、哲学的な検討の対象となり得ます。どのような概念の枠組み(哲学的な「表現」)の中で科学的なモデル(科学的な「表現」)が構築されているのかを理解することは、そのモデルの妥当性や適用範囲を深く理解するために不可欠です。例えば、「因果性」という哲学的な概念の異なる捉え方(規則性説、反実仮想説など)は、科学が因果関係をモデル化し、データから推論する際の方法論に影響を与え得ます。
また、科学的な「表現」が何を表現できないかという問題は、哲学の重要な探求領域となります。科学モデルが捨象する現実の側面(例えば、モデル化されない微細な影響、予測不可能な特異点、あるいは完全に主観的な経験)は、哲学が問い直す対象となり、科学の限界を示すとともに、新たな探求の方向性を示唆します。
科学技術に携わる私たちは、日常的に多様な「表現」手法(数式、コード、グラフ、モデル図など)を用いて世界の特定の側面を捉え、操作しています。自身の扱う「表現」が、現実の何をどのように切り取り、何を意図的に、あるいは無意識のうちに排除しているのかを哲学的に問い直すことは、構築しているモデルやシステムの真の意味や限界を深く理解することにつながります。また、哲学が概念や言語をいかに厳密に「表現」しようとするかを知ることは、自身の科学的「表現」の曖昧さを減らし、より明確な思考とコミュニケーションを助けるかもしれません。
結論:二つの「表現」が織りなす真理への道
科学は世界を記述し、予測・制御するためのモデルという形で「表現」し、哲学は世界の根本的な構造や人間の経験を概念や言語という形で「表現」します。これらの「表現」は、それぞれ異なる基準(実証性 vs 論理的整合性、予測精度 vs 概念的明晰さ)によって評価されますが、どちらも複雑な現実を理解可能な形式に落とし込み、真理へ近づこうとする人間の営みです。
科学の進歩は哲学に新たな現実の「表現」を提示し、哲学的な考察は科学が用いる「表現」の基盤を問い直します。この二つの異なる「表現」のアプローチが対話することで、私たちは世界のより豊かな、そしてもしかするとより真実に近い「像」を描くことができるのかもしれません。自身の専門分野における「表現」を単なる技術としてだけでなく、世界や真理を捉えるための一つの試みとして捉え直す時、そこに哲学との対話の新たな扉が開かれるでしょう。
科学技術者は、自身が用いるモデルやデータの「表現」が、現実の全てではなく、ある特定の視点からの近似であることを常に意識し、その限界や前提を哲学的に問い続けることが重要です。そして、哲学者が概念や言語によって世界の理解を深めようとする努力に触れることで、自身の「表現」手法を超えた、新たな思考の形や問いを見出すことができるはずです。真理への道は一つではなく、科学と哲学がそれぞれの「表現」を通じて互いに照らし合うことで、その輪郭がより鮮明になるのではないでしょうか。