科学はいかに「説明」し、哲学はいかに「理解」するか?
私たちの知的好奇心は、常に世界で起こる出来事や存在の理由を問います。この問いに対し、科学と哲学はそれぞれ独自の方法で答えを模索してきました。科学は現象を「説明」することに長け、哲学は存在や概念を「理解」しようと努めます。一見似ているこれらの営みは、目的も手法も異なりますが、互いに問いかけ、示唆を与え合う関係にあります。本稿では、科学と哲学が「説明」と「理解」という活動を通じて、どのように真理に迫るのかを対話形式で探ります。
科学的な「説明」:法則とメカニズムによる記述
科学における「説明」は、通常、特定の現象がなぜ、どのように起こるのかを、確立された法則や理論、あるいは具体的なメカニズムを用いて明らかにすることを指します。例えば、「なぜ物体は地面に落ちるのか?」という問いに対して、ニュートンの運動法則や万有引力の法則を用いて答えるのは典型的な科学的説明です。
科学哲学において、説明のモデルは様々に議論されてきました。代表的なものの一つに、カール・ヘンペルらが提唱した演繹的法則モデル(D-Nモデル)があります。これは、説明されるべき現象(被説明項)が、一般的な法則と特定の初期条件(説明項)から論理的に演繹される場合に、説明が成立するという考え方です。これは、法則が既知であれば、特定の条件下で何が起こるかを「予測」することも可能にする枠組みであり、科学的説明と予測が密接に関わっていることを示しています。
また、現代の科学、特に生命科学や認知科学などでは、メカニズムによる説明が重視される傾向があります。これは、現象を引き起こす構成要素や、それらの相互作用の構造を詳細に記述することで説明を行うアプローチです。例えば、細胞の機能や脳の働きを説明する際に、特定の分子や神経回路がどのように連携して機能するのかを示すことは、メカニズムによる説明と言えます。
科学的説明は、その正確性、予測力、検証可能性を重要な基準とします。厳密な観察や実験によって裏付けられ、反証の可能性に開かれていることが、科学的説明の信頼性を担保するのです。科学の研究開発に携わる方々にとって、この「説明」の営みは日々の中心にあるものでしょう。特定のシステムがなぜ予期せぬ振る舞いをするのか、新しい材料がなぜ特定の特性を示すのか、データセットのパターンがなぜ生じるのか、といった問いに対し、法則やメカニズムを探求し、論理的に説明を構築していく作業です。
哲学的な「理解」:存在、意味、価値への問いかけ
一方、哲学における「理解」は、単に現象を説明するに留まらず、その存在の意味、価値、他の概念との関連性、そして究極的な根拠といったより深い問いに答えることを目指します。哲学は「なぜ世界は存在するのか?」「意識とは何か?」「善とは何か?」といった、科学だけでは直接的に答えられない問いを探求します。
例えば、「なぜ物体は地面に落ちるのか?」という科学的な問いに対し、哲学は「そもそも空間や時間とは何か?」「因果性とは実在するのか、それとも我々の認識の枠組みなのか?」といった、法則の背後にある前提や概念そのものに問いを向けます。プラトンのイデア論やアリストテレスの四原因説は、古代ギリシャ哲学が世界や存在を「理解」しようとした試みの一例です。カントは、私たちの認識の枠組みがどのように経験を可能にするのかを探求し、世界の「理解」の基盤そのものを問い直しました。
哲学的な理解は、しばしば概念の明確化、論理的な整合性の追求、そして全体的な世界観や価値観の中での位置づけを通じて達成されます。これは特定の事実や法則を特定することよりも、問いの根源を探り、多様な側面から考察を深める思考実験や対話を通じて行われます。哲学的な理解は、予測や制御といった実用的な目的よりも、知的な満足や精神的な充足をもたらす側面が強いかもしれません。
哲学的な探求は、時に科学の問いかけに影響を与えます。例えば、デカルトの心身二元論のような哲学的な問題設定は、後の心理学や脳科学における意識や身体の研究の方向性に間接的に影響を与えたと言えるでしょう。また、人工知能の発展は、「知性とは何か」「意識は機械に宿るか」といった哲学的な問いを現代的な文脈で再活性化させています。
科学と哲学の「対話」:異なるアプローチからの相互補完
科学的な「説明」と哲学的な「理解」は、互いに独立した営みではなく、しばしば深いところで関連し合います。
科学は世界の仕組みを精緻に説明することで、私たちの「理解」を深めます。宇宙論が宇宙の成り立ちを説明することで、私たちは宇宙における自身の位置づけをより深く理解できるようになります。脳科学が意識と脳活動の相関を説明することで、私たちは意識の本質について哲学的に考察する際の重要な手がかりを得ます。科学的発見は、哲学が問い直すべき新たな問題を提供し、既存の哲学的な「理解」を問い直すことを迫ります。
逆に、哲学的な問いかけは、科学研究の方向性や、科学が扱うべき対象を再定義する契機となります。「生命とは何か」「自己とは何か」といった哲学的な問いは、生物学や神経科学における重要な研究テーマに繋がっています。また、科学の方法論そのものに対する哲学的な考察(科学哲学)は、科学がどのように知識を獲得し、何をもって「真理」とするのかという、科学の内側からの視点だけでは気づきにくい問いを提示し、科学の健全な発展を支える役割を果たします。
科学的な説明が、時に「なぜ(Why)?」ではなく「どのように(How)?」に焦点を当てる傾向があるのに対し、哲学はむしろ根源的な「なぜ?」や「何であるか?」を追求します。しかし、優れた科学者は、自身の研究が持つより広い意味や、それが人間や世界全体の中でどのような位置を占めるのかという哲学的な問いにも関心を持つことが多いのではないでしょうか。また、哲学者は、科学の最新の知見を学ぶことで、自身の思考をより豊かなものにし、机上の空論に終わらない深い「理解」を目指すことができます。
例えば、複雑系の科学は、個々の要素の単純な「説明」だけでは全体の挙動を予測できない「創発」という現象を明らかにしました。これは、「全体は部分の総和以上である」といった哲学的な全体論の考え方に、科学的な根拠や具体的なモデルを提供し、従来の還元主義的な「説明」の限界を示すものと言えます。
結論:二つの探求の交差点
科学的な「説明」は、世界の観測可能な現象に対する因果関係やメカニズムを明らかにすることで、予測と制御を可能にします。哲学的な「理解」は、存在の根拠、意味、価値といった、より根源的で全体的な問いに答えることで、私たちの世界認識や生き方に深い洞察を与えます。
この二つのアプローチは、異なる問いに異なる方法で応えようとしますが、真理を探求するという点では共通しています。科学の進展は哲学に新たな問いを投げかけ、哲学的な考察は科学の限界を示唆し、その進むべき道を照らすことがあります。研究開発に携わる皆様にとって、日々の専門的な「説明」を追求する中で、自身の研究が「全体」の中でどのような意味を持つのか、あるいは、その成果がどのような価値を持つのかといった哲学的な「理解」を深める視点を持つことは、新たな発想や研究の意義を見出すきっかけとなるかもしれません。
科学と哲学は、それぞれの持ち場で真理の断片を捉えようと奮闘しています。両者の間で行われる対話は、私たちが世界をより多角的かつ深く「説明」し、「理解」するための豊かな視座を提供してくれるでしょう。