「反証可能性」は科学をどう定義するか?哲学が問う真理の基準との対話
科学技術分野において、私たちは日々の研究開発で仮説を立て、実験や観察を通じてそれを検証しています。このプロセスにおいて、「私たちの理論は本当に正しいのか」「何をもって科学的とするのか」という問いは、単なる方法論に留まらず、知識の信頼性という根源的な問題に関わります。科学は、単に「こうである」と主張するだけでなく、「こうではない可能性」を排除していく営みでもあります。この記事では、科学がその信頼性の基盤として重視する「反証可能性」という概念に焦点を当て、哲学が伝統的に探求してきた「真理」の基準と比較しながら、両者がどのように世界の理解に迫るのかを探ります。
哲学が探求する真理の多様な顔
哲学は古来より「真理」とは何かを深く問い続けてきました。真理に対する考え方は多様であり、特定の基準をもって真理を定義しようとする試みがなされてきました。
例えば、対応説は、ある命題が現実世界の事実と「対応」するとき、その命題は真であると主張します。これは、私たちの科学的な観察や実験データが、理論的な記述と一致することを真実性の根拠とする考え方と親和性が高いと言えます。
一方、整合説は、ある命題が、すでに真とされている他の命題群と論理的に「整合」するとき、その命題は真であるとします。数学や論理学の分野では、個々の定理が公理系の中で整合的であるかどうかが重要になります。科学においても、異なる理論や観測結果が一貫していることは、その信頼性を高める要素です。
また、プラグマティズムのような立場からは、ある考えや理論が、私たちの実践において有効である、あるいは成功をもたらすときに真であると見なされます。科学技術の開発においては、理論が予測や制御にどれだけ役立つかという実用性が重視されることが多く、この考え方と関連があります。
哲学は、これらの真理観を通じて、論理的な無矛盾性、既存の知識体系との一貫性、あるいは実践的な有用性といった基準から真理に迫ろうとします。しかし、これらの基準だけでは、現実に基づかない空想的な体系や、一時的に有効に見えるだけの主張を真理と区別することは困難な場合もあります。
科学が重視する「反証可能性」
哲学が論理や整合性を重視するのに対し、経験科学がその活動の重要な基準とするのが、反証可能性 (Falsifiability) です。これは20世紀の科学哲学者カール・ポパーによって提唱された概念です。
ポパーは、ある理論や仮説が「科学的である」ためには、それが経験的な観察や実験によって反証される可能性がある、すなわち、もしそれが誤っているならば、その誤りを示すような観測結果が存在しうる形で定式化されていなければならない、と主張しました。
例えば、「全てのカラスは黒い」という仮説は反証可能です。なぜなら、もし一羽でも黒くないカラス(例えば白いカラス)が発見されれば、この仮説は誤りであることが示されるからです。一方、「将来、地球外生命体が存在することが判明するかもしれない」という主張は、それが真である可能性は否定できませんが、現時点で「誤りである」ことを示す経験的な方法は存在しないため、反証可能とは言えません(存在しないことを証明するのは一般に困難です)。また、「どんな状況でも必ず解釈可能な形で説明できる」ような、あらゆる可能性を予言に含める占星術のような体系は、原理的に反証不可能であるため、ポパーはこれを科学とは区別しました。
科学理論は、反証される可能性に常に晒されながらも、繰り返し行われる検証に耐えることで、その信頼性を高めていきます。重要なのは、検証に「成功」して絶対的な真理となるのではなく、反証の試みに「耐え続ける」ことで、より確からしい暫定的な知識として認められる、という点です。科学は真理を「発見」するというより、誤りを「排除」していくことで真理に「接近」していく営みである、とも言えるでしょう。
反証可能性をめぐる哲学と科学の対話
さて、哲学の真理基準と科学の反証可能性という基準は、どのように対話し、互いにどのような問いを投げかけるのでしょうか。
哲学は、まず科学が反証可能性を基準とする根拠そのものを問い直すことができます。なぜ反証される可能性のある主張だけが科学的なのでしょうか?これは、科学の目的が経験的な世界に関する確実な知識を得ることにあるという哲学的な前提に基づいていると言えます。しかし、「経験」や「観察」そのものが完全に客観的で反証の基準として絶対的に信頼できるのか、といった懐疑的な問いも哲学から発せられ得ます。
特に、ウィラード・ヴァン・オーマン・クワインのような哲学者は、個々の理論は単独で経験と対峙するのではなく、私たちの知識体系全体(「信念の網」)が経験と対峙すると考えました。これを確認の全体論と呼びます。この立場では、ある特定の観測結果が既存の理論と矛盾した場合、反証されるのはその個別の理論だけでなく、その理論を支える多くの前提や概念全体でありうる、とされます。したがって、観測と矛盾したとしても、特定の理論を反証されたと見なすのではなく、知識体系の別の部分を修正することで、その理論を維持することも原理的には可能になります。これは、科学における「反証」が単純なプロセスではなく、どの部分を修正すべきかという解釈の余地を含むことを示唆しています。
また、科学技術の現場では、複雑なシステムやモデルにおいて、特定の仮説を明確に反証するための実験を設計することが極めて困難な場合があります。あるいは、理論の検証に非常に長い時間や莫大なコストがかかる場合もあります。このような現実的な制約は、反証可能性という理想的な基準と、科学の実践との間にずれを生じさせます。哲学は、このような実践における「反証可能性の限界」を指摘し、科学理論の信頼性を別の側面から問い直す機会を提供します。
逆に、科学的な発見や理論は、哲学的な真理観に新たな視点をもたらします。例えば、不確定性原理が示すようなミクロ世界の予測不可能性や、カオス理論が示す複雑系の非決定論的な振る舞いは、伝統的な決定論的な真理観や因果律に基づく理解に挑戦を突きつけます。また、脳科学が進展し、私たちの意識や意思決定のプロセスが物理的・化学的な現象として記述され始めると、「真理を知る」主体であるはずの自己や認識能力そのものについて、哲学的な問いがより具体的な科学的知見と結びついて再検討されることになります。
結論:基準の違いから生まれる洞察
科学における反証可能性という基準は、経験的な世界に関する知識の信頼性を確保するための強力なツールです。それは科学を疑似科学から区別し、理論が現実によって検証されるべきであることを強調します。一方、哲学が探求する真理の基準は、論理的な整合性や概念的な明晰さ、あるいは知識体系全体の整合性といった、より広範で根源的な問いを含んでいます。
両者のアプローチは異なりますが、それぞれが真理の異なる側面に光を当てています。科学は「経験的に誤りうるものは何か」を問うことで真理に接近し、哲学は「真理とは何か」「いかにして知りうるか」という問いそのものを洗練させます。この対話は、科学理論の構築や評価において、単なる実証データだけでなく、その理論が依拠する論理的な構造や哲学的な前提にも意識を向けることの重要性を示唆しています。
私たち研究開発に携わる者は、日々の業務で仮説検証を行いますが、その際に自身の仮説が「反証可能」な形で定式化されているかを吟味することは、研究の質を高める上で不可欠です。同時に、自身の専門分野における理論やモデルが、どのような哲学的な真理観や知識観に立脚しているのか、あるいはどのような限界を持つのかを考察することは、より深い洞察や新たな発想に繋がるかもしれません。科学と哲学、異なる視点から真理を追求するこれらの営みは、互いに問いかけ合うことで、私たちの世界の理解をより豊かにしてくれるのです。