数学的真理は「ある」のか、「つくる」のか? 発明か発見かという古くて新しい問い
数学は私たちの「外」に存在するのか?
私たちは日々、数学を用いて世界を理解し、技術を発展させています。物理学の法則は数学で記述され、工学の計算は数学なしには成り立ちません。現代社会は数学の上に成り立っていると言っても過言ではないでしょう。しかし、この数学が扱う対象、例えば「数」や「図形」、「集合」といったものは、一体どこに存在するのでしょうか。私たちの意識の産物なのでしょうか、それとも私たちの「外」に独立して存在する、何らかの実在なのでしょうか。
この問いは、「数学は発明か、発見か」という形で古くから議論されてきました。もし数学が発見されるものであるならば、それは物理法則のように、私たちの知覚や思考とは無関係に存在する真理を明らかにしていることになります。一方、もし数学が発明されるものであるならば、それは人間精神の構造や文化の中で築き上げられる、形式的な体系や言語のようなものということになります。
哲学と科学は、それぞれ異なるアプローチからこの問いに迫ります。
哲学が問う数学的実在の根源
哲学、特に数学の哲学においては、数学的対象の実在性について様々な立場が議論されてきました。
最も古く影響力のある立場の一つに、プラトニズムがあります。古代ギリシャの哲学者プラトンに由来するこの考え方では、数学的対象(例えば、完全な円や数そのもの)は、感覚世界とは別の、不変で永遠な「イデア界」に実在すると考えます。私たちが数学を学ぶとき、それはこのイデア界に存在する真理を「想起」あるいは「洞察」しているのだと捉えられます。この立場では、数学はまさに発見されるものです。
これに対し、アリストテレスのように、実在は個々の具体的な事物の中にあり、数学的な概念はそれらを抽象化することによって得られると考える立場もあります。これは数学的対象が独立した実在を持つことを否定し、むしろ私たちの認識のプロセスに根差していると示唆します。
20世紀に入り、数学の基礎を巡る探求が進む中で、この問題は新たな展開を見せました。
論理主義(フレーゲ、ラッセル)は、数学を論理学に還元しようと試み、数学的真理を論理的真理の一部と見なしました。論理的真理が発見されるものならば、数学的真理もまた発見されることになりますが、論理そのものが実在を持つのかという問いが残ります。
形式主義(ヒルベルト)は、数学を、記号と操作規則からなる形式的なゲームのようなものと捉えました。ここでは、数学的対象そのものの実在性には触れず、体系の無矛盾性に関心が向けられます。これは数学を発明に近いものとして捉える立場と言えます。
直観主義(ブラウワー)は、数学的対象は人間の精神の直観によって構成されるものと考え、非構成的な存在証明を認めませんでした。これは数学が人間の精神活動に強く依存する、発明的な側面を強調する立場です。
現代の数学の哲学においても、これらの古典的な立場のバリエーションや、数学的対象をフィクションとして捉える仮想主義など、様々な考え方が存在します。哲学は、数学的実在性という問いの概念的な枠組みを整理し、私たちがこの問いをどのように捉えうるか、その可能性の空間を探求します。
科学が示す数学の驚異的な有効性
一方、科学は数学そのものの存在論的な性質を直接問うことは少ないですが、数学が現実世界に対して持つ驚異的な有効性を示しています。物理学者ユージン・ウィグナーは、その著書「科学における数学の不合理な有効性」の中で、なぜ抽象的な数学が物理現象をこれほどまでに正確に記述し、予測できるのかという問いを投げかけました。
例えば、ニュートンの運動方程式や、アインシュタインの一般相対性理論の場の方程式、量子力学におけるシュレーディンガー方程式など、物理学の根幹をなす法則は高度な数学的構造で記述されます。さらに驚くべきことに、純粋数学における抽象的な概念や理論(例えば、リーマン幾何学や群論など)が、それが発見された当時には全く予期されていなかった形で、後に物理現象の記述に不可欠となることがあります。これは、数学が単なる人間の形式的な発明であるならば説明しにくい現象であり、数学的構造が世界の何らかの深い構造を捉えているのではないか、つまり発見的な側面が強いのではないか、という示唆を与えます。
数理物理学の観点からは、宇宙の究極的な実在は、数学的な構造そのものであると考える立場(数学的宇宙仮説など)さえ登場しています。これは、物理法則が数学で記述されるというレベルを超え、物理的実在そのものが数学的実体であると主張する、極めてプラトニズムに近い考え方です。
また、認知科学や脳科学の視点からは、人間の数学的能力がどのように発達し、脳内でどのように処理されているかが研究されています。人間が普遍的な数学的真理を認識する能力を持つのか、それとも脳の特定の構造や機能が数学的な思考パターンを「構成」するのか、といった問いは、数学が人間の内部に根差すものなのか、外部の実在を捉える能力なのかという議論に関連します。
哲学と科学の対話:実在への異なる光
哲学は「なぜ」数学が有効なのか、数学的対象は究極的に「何」なのかという存在論的・認識論的な問いを立てます。それは、数学が持つ論理的な必然性や概念的な純粋さから出発し、数学的真理の性質やその根拠を深く掘り下げます。多様な形而上学的な可能性を提示し、私たちの直観や思考の限界を問い直す役割を果たします。
一方、科学は数学が「どのように」現実世界に適用できるのか、その驚異的な適合性は具体的にどのような現象で見られるのかを示し、また人間の脳が「どのように」数学を扱うのかを実証的に探ります。数学の有効性を具体的なデータや理論によって裏付け、哲学的な問いに経験的な知見を提供します。
この対話の中で、科学は哲学に対して「なぜ私たちの世界はこれほどまでに数学的構造に満ちているのか?」という、説明困難な現象を突きつけます。哲学はこれに対し、実在の性質そのものについての問いを深めたり、あるいは人間の認識能力や数学という営みの本質について新たな考察を促したりします。逆に、哲学の提示する数学的実在の多様な可能性は、数理物理学における新たな理論の探求や、認知科学における数学的能力の起源に関する研究テーマを触発する可能性があります。
しかし、どちらの分野も、数学的実在性という問いに決定的な答えを与えるまでには至っていません。科学の有効性は、数学が実在することを「証明」するものではなく、哲学的な議論は実証的な裏付けを欠くという限界があります。
終わりに:問い続けることの価値
数学が発明なのか、発見なのかという問いは、単なる学術的な議論に留まりません。それは、私たちが扱う「真理」とは何か、客観的な実在とは何か、そして人間の認識能力の限界と可能性はどこにあるのか、という根源的な問いと繋がっています。
研究開発職として、私たちは日常的に数学を用いて自然や技術の真理を探求しています。その際、自身が扱っている数学的ツールや概念が、どのような性質を持ち、どこまで私たち自身の構成物であり、どこから世界の普遍的な構造を反映しているのかを意識することは、既存の枠にとらわれない発想や、自身の研究の根幹にある前提を見直すきっかけとなるかもしれません。
哲学と科学がこの問いを巡って対話し続けることは、数学的真理だけでなく、私たちが真理に迫る様々な方法、そしてそれぞれの方法の持つ意味と限界についての理解を深めることに繋がります。それは、単一の視点では見えない、多角的な実在の「像」を浮かび上がらせる探求なのです。