対話する真理

科学が世界をモデル化する意味:記述か解釈か、哲学との対話

Tags: 科学哲学, モデル, 実在論, 道具主義, 科学的方法

科学と哲学、それぞれのレンズで捉える「モデル化」の本質

私たちは科学を通じて世界を理解しようとする時、しばしば「モデル」を用います。物理学における素粒子の標準模型、気候変動の予測モデル、化学における分子構造モデル、生物学における遺伝子ネットワークモデル、そして最近では人工知能における学習モデルなど、様々な分野でモデルは不可欠なツールとなっています。これらのモデルは、複雑な現実を単純化し、特定の側面を捉え、現象を予測したり説明したりする上で絶大な力を発揮します。しかし、この「モデル化」という行為そのものが、私たちの世界認識について、そして「真理」への接近について、どのような意味を持つのかを深く問い直すと、科学だけでは答えきれない哲学的な層が見えてきます。

科学は観測や実験を通じて得られたデータを基に、法則や理論を構築します。モデルは、これらの法則や理論を具体的な形にし、特定の現象に適用可能にする枠組みと言えます。その成功は、予測の精度や実験結果との一致度によって測られるのが一般的です。例えば、ある物理モデルが未知の粒子の存在を正確に予測したり、気候モデルが将来の気温上昇を高い確度で示したりすれば、そのモデルは「良いモデル」と評価されます。科学者は通常、このようにモデルを実用的な道具として扱います。つまり、モデルは現実を「操作」し、「予測」するための有効な手段である、という視点です。

モデルは何を「写し」ているのか?哲学が問いかける実在と道具

ここで哲学の視点が加わります。科学が用いるモデルは、単に現実を予測するための「道具」なのでしょうか。それとも、モデルは現実の構造そのもの、あるいはその「真理」の一部を「記述」しているのでしょうか。この問いは、科学哲学における古くからの論争である「実在論」と「道具主義(あるいは操作主義)」という対立軸に深く関わってきます。

実在論の立場からは、優れた科学理論やモデルは、観測可能な現象だけでなく、その背後にある観測不可能な実体(例えば、素粒子そのものや場、見えないネットワーク構造など)をも含め、世界の真のありさまを記述していると考えます。モデルが予測に成功するのは、それが世界の実際の構造を反映しているからだ、という説明になります。

一方、道具主義の立場からは、科学理論やモデルは、あくまで観測可能な現象を整理し、予測し、操作するための便利な「道具」であると見なします。モデルが現実の「真理」や「実体」を写し取っているかどうかは、知りえない、あるいは科学の範疇ではないと考えることが多いです。モデルの成功は、それが経験的なデータとうまく整合し、有用な予測を可能にするという点にある、と説明します。

科学的成功と哲学的な解釈の対話

科学の歴史を振り返ると、この哲学的な問いは絶えず現れてきました。例えば、ニュートン力学は惑星の運動や物体の落下を見事に記述・予測しましたが、それが「絶対空間」や「絶対時間」といった実体を記述しているのか、それとも単に運動を計算するための便利な数学的枠組みなのか、という議論がありました。そして、アインシュタインの相対性理論が登場し、ニュートンのモデルとは全く異なる時空間概念を提示しました。これは、以前成功していたモデルが、必ずしも現実の究極的な真理を写し取っているわけではない可能性を示唆していると言えるでしょう。

現代の科学、特に物理学における量子力学や、複雑系科学における非線形モデル、そしてAIの分野で見られる高度な学習モデルは、この問いをさらに複雑にしています。量子力学のモデルは驚異的な予測精度を誇りますが、その数学的な記述が粒子や場の「実体」をどのように表しているのかについては、様々な解釈(コペンハーゲン解釈、多世界解釈など)が存在し、哲学的な議論が続いています。また、深層学習モデルは画像認識や自然言語処理で人間を凌駕する性能を発揮しますが、その内部で何が起きているのかが人間には理解しにくい「ブラックボックス」であることが多いです。高い予測能力という道具主義的な成功を収めている一方で、モデルが対象の「本質」や「構造」をどのように捉えているのか(記述力)については、まだ課題が多いと言えます。説明可能なAI (XAI) の研究は、単なる予測ツールとしてのモデルから、より記述的・説明的なモデルへと移行しようとする試みであり、これはある意味で道具主義から実在論的な方向への問いかけを含んでいると言えるかもしれません。

モデル化の限界と新たな視点

科学者がモデルを構築し、改良していくプロセスは、単にデータに合うようにパラメータを調整するだけでなく、どの側面を単純化し、どの概念を取り入れるかといった、ある種の「解釈」や「判断」を含んでいます。この判断には、科学者個人の直観や、所属するコミュニティの暗黙の了解、さらには「世界はシンプルであるべきだ」といった哲学的な信念が影響を与えている可能性もあります。モデルの選択において「オッカムの剃刀」(最も単純な説明を選ぶ)のような原則が用いられることは、単なる実用性だけでなく、哲学的な「美学」が科学に影響を与えている例と言えるでしょう。

多忙な研究開発職の方々にとって、日々の業務でモデルを扱う際に、そのモデルが「何を目的としているのか」「何を捉え、何を捨象しているのか」「どのような哲学的な前提に立っている可能性があるのか」といった問いを意識することは、自身の研究の立ち位置を深く理解し、新たな視点やアイデアを得るきっかけになるかもしれません。例えば、自身の分野の標準的なモデルに対して、「このモデルは現実のこの側面を捉えるのに長けているが、別の側面(例えば、相互作用や時間発展の特定のパターン)については、実は何も語っていないのではないか」といった批判的な視点を持つことは、モデルの限界を認識し、より良いモデルを模索する出発点となります。

結論:モデルを通じた真理への多角的なアプローチ

科学モデルは、世界を理解し、操作するための強力なツールです。それは現象の記述、予測、説明に貢献し、技術革新の基盤となります。しかし、そのモデルが現実の「真理」や「本質」をどこまで写し取っているのか、それは単なる「道具」なのか、それとも世界の「記述」なのかという問いは、科学単独では完結しません。

哲学は、モデル化という科学の根幹にある行為に対し、実在論と道具主義といったレンズを提供し、モデルの持つ意味や限界について深く考察することを促します。科学者は道具主義的なスタンスで研究を進めることが多いとしても、その背後にある哲学的な問いを意識することで、自身の研究活動に新たな解釈のレイヤーを加えることができます。

科学と哲学の対話は、モデルという日常的なツールを通して、真理への多角的な理解を深めます。それは、単一の絶対的な「真理」が存在するのかどうか、もし存在するなら、科学モデルはその真理にどのように接近できるのか、あるいはモデル自体が真理の異なる側面を映し出す「解釈」の一つなのか、といった根本的な問いを私たちに投げかけ続けます。自身の研究分野における「モデル」について、改めて哲学的な視点から問い直してみてはいかがでしょうか。