対話する真理

科学が目指す「客観性」とは? 哲学が問うその成り立ちと限界

Tags: 客観性, 科学哲学, 認識論, 量子力学, 認知科学

科学研究において「客観性」は極めて重要な概念とされています。データは客観的であるべきであり、理論は主観に左右されず、普遍的に成り立たなければならないと考えられています。しかし、この「客観性」とは一体何でしょうか。それは揺るぎない絶対的なものなのでしょうか。哲学は古来より、認識や実在における客観性の意味、その成り立ち、そして限界について深く問い続けてきました。

この記事では、科学がその方法論においてどのように客観性を追求するのか、そして哲学が客観性という概念そのものをどのように分析し、問い直すのかを比較・対話させながら探ります。科学の視点と哲学の視点を通して、私たちの認識や、科学が捉える世界の「客観的な真実」に対する理解を深めていくことを目指します。

科学における客観性の追求とその挑戦

科学は、特定の個人や観測者の主観に依存しない、普遍的な知識の獲得を目指します。そのために、科学は以下のような方法論を通じて客観性を担保しようと試みます。

これらの方法論は、科学が主観的な思い込みや個人的なバイアスから距離を置き、「客観的な事実」に基づいた知識を構築するための強力な手段となります。物理学であれば、物体の運動は観測者の立場によらず一定の法則に従うと考えられ、その法則は数式として客観的に記述されます。生物学であれば、遺伝子の発見や病気のメカニズム解明は、個別の症例の主観的な経験ではなく、統計データや分子レベルでの客観的な証拠に基づいて進められます。

しかし、科学の発展は、客観性という概念自体に問いを投げかける場面にも遭遇してきました。例えば、量子力学の世界では、「観測」という行為自体が系の状態に影響を与える可能性が示唆されています。これは、古典物理学が前提としていた「観測者から独立した客観的な実在」という考え方を揺るがすものでした。また、認知科学や心理学の研究は、人間の知覚や思考がいかに多くの認知的バイアスに影響されているかを明らかにしており、科学者自身の観測や解釈も、意識的あるいは無意識的に主観性の影響を受ける可能性を示唆しています。データを収集する際のサンプリングバイアスや、結果を解釈する際の理論的枠組みへの依存なども、科学的客観性の現実的な限界として認識されています。

哲学が問う客観性の根源と意味

哲学は、科学が方法論的に追求する客観性とは異なる角度から、この概念に迫ります。哲学における客観性への問いは、認識論(私たちはどのようにして世界を知るのか)や存在論(何が存在するのか)の根幹に関わります。

デカルトは、すべてを疑った末に「我思う、故に我あり」という主観の確実性を見出し、そこから客観的な外部世界の存在を証明しようと試みました。これは、客観性を主観からの出発点として捉える視点を提供します。

カントは、私たちの認識が、外部からの感覚入力と、私たちに先天的に備わっている「悟性形式」(原因と結果、実体など)や「感性形式」(時間、空間)という主観的な構造によって構成されると考えました。私たちが見たり理解したりする「客観的な世界」は、こうした主観的な形式を通して構築されたものであるとすれば、真に「観測者から完全に独立した世界そのもの」を知ることは不可能かもしれない、と示唆されます。

現象学では、客観的な世界は、私たちの意識における経験や意味付けを通して構成されると考えます。主観的な経験の構造を深く探求することで、客観的な世界がどのように現象として現れるのかを理解しようとします。

また、社会構成主義の立場からは、科学的な客観性を含め、多くの「客観的真理」とされるものは、特定の社会や文化の中で共有された認識や合意によって成り立っている、という見方も提示されます。科学理論の受け入れやパラダイムの転換は、単なる客観的証拠の累積だけでなく、科学者コミュニティ内の複雑な相互作用によって影響される、と論じられることもあります(クーンの科学革命論など)。

哲学は、科学が当然の前提としがちな「外部に客観的な実在があり、私たちはそれを認識できる」という直観に対し、「そもそも客観性とはどういう状態か」「いかにして主観的な経験から客観的な認識は生まれるのか」「客観性の根拠はどこにあるのか」といった、より根源的な問いを投げかけます。

哲学と科学の対話:客観性への異なる光

科学が「客観的な真理を発見する手続きや基準」として客観性を追求するのに対し、哲学は「客観性とは何か、いかにしてそれが可能になるのか」という問いを深掘りします。両者の対話は、客観性に対する私たちの理解を多角的に深めます。

科学が量子力学の観測問題や認知バイアスの研究を通して客観性の実践的な限界を示すことは、哲学が論じてきた認識主体の限界や客観性の構成性といった議論に、具体的な事例や科学的な根拠を与えます。哲学の思考実験や概念分析は、「客観的なデータ」や「客観的な観測」といった科学的な言葉の背後にある前提を問い直し、科学者に自身の方法論や結論に対するより深い省察を促します。

例えば、データ分析において「客観的な評価指標」を用いることは科学的営みとして重要です。しかし哲学は、「そもそもその評価指標は何を捉えようとしているのか」「その指標が本当に客観的な真実を反映していると言える根拠は何か」「異なる指標や異なる枠組みからは全く違う『客観的な事実』が見えうるのではないか」といった問いを投げかけます。これは、指標設計の妥当性や、結果の解釈における限界をより深く考察するきっかけとなります。

また、AI開発における倫理的な問題やバイアスの問題も、この客観性の議論と無関係ではありません。AIが学習するデータに含まれる人間の主観性や社会的な偏見は、AIの出力の「客観性」に影響を与えます。哲学的な視点から「公正さ」や「中立性」といった概念を深く掘り下げることは、AIの設計や評価基準を検討する上で、単なる技術的な最適化を超えた重要な示唆を与えうるでしょう。

まとめ:自身の研究における客観性への示唆

哲学と科学は、それぞれ異なる方法で客観性に迫ります。科学は実証と方法論によって客観性を確立しようとし、哲学は概念の分析と思考実験によって客観性の意味と可能性を問い直します。両者の対話は、客観性という概念が単一で揺るぎないものではなく、多層的で常に問い直されるべきものであることを示唆します。

研究開発職として科学技術に携わる私たちは、「客観的なデータ」や「客観的な事実」を扱っていると考えがちです。しかし、哲学と科学の対話から得られる洞察は、自身の専門分野における客観性が、どのような理論的枠組み、測定手法、あるいは暗黙の前提の上に成り立っているのかを省察する機会を与えてくれます。

あなたが現在取り組んでいる研究において、「客観的な成果」として提示しようとしているものは、どのような意味での客観性を持っているでしょうか。そこにはどのような主観性やバイアスが入り込む可能性があるでしょうか。科学的方法論の客観性を追求しつつも、その根拠や限界について哲学的な問いを忘れないこと。そして、科学の最前線が客観性という概念に突きつける課題に注目すること。これらの視点は、あなたの研究活動に新たな深みと批判的な視点をもたらし、より頑健で洞察に満ちた成果へと繋がるかもしれません。