科学理論は何を記述するのか? 実在論と反実在論の対話
導入:科学理論は世界の真実を映すのか?
日々、研究開発の現場で科学理論やモデルに触れている皆様にとって、それらが自然現象を理解し、予測し、制御するための強力なツールであることは自明のことでしょう。ニュートンの運動法則から量子力学、一般相対性理論に至るまで、科学理論は驚くべき成功を収めてきました。しかし、これらの理論が語る「世界」は、文字通りの意味で実在するのでしょうか。理論が記述する電子やクォーク、重力波といった存在は、我々が日常的に知覚する物体と同じように「そこに存在する」と言えるのでしょうか。
この根源的な問いは、科学の営みそのものに関わる哲学的な問題であり、「実在論」と「反実在論」という二つの主要な立場を生み出してきました。本稿では、この哲学的な対立軸を、科学の視点と哲学の視点からの「対話」として探求し、私たちの科学理解を深めるための新たな視点を提供することを目指します。
科学的実在論:理論は実在を記述する
科学的実在論は、最も直感的に受け入れられやすい立場かもしれません。この立場は、成功した科学理論は、たとえ直接観察できない対象(不可観測者)について語る場合であっても、世界の真の構造を記述していると主張します。例えば、原子論が発展し、電子や陽子といった素粒子の存在を仮定することで様々な現象が説明できるようになりました。実在論者は、こうした理論の予測力の高さや説明力の広範さこそが、それらが positing する不可観測者が実際に存在することの強い証拠だと考えます。
彼らは、科学の歴史における理論の変遷を、真理へと徐々に近づいていく過程と見なします。かつてはエーテルの存在が信じられていましたが、後の実験によって否定されました。これは実在論にとっては、誤った実在像が修正された例であり、科学が進歩することでより正確な実在の姿が明らかになる証拠となり得ます。理論が観測結果をうまく説明できるだけでなく、新たな予測を導き、それが検証されるというサイクルは、理論が単なる便宜的な計算ツールではなく、世界の現実を捉えているからこそ可能だと論じます。
科学的反実在論:理論は現象を整理する道具である
一方、科学的反実在論は、科学理論の成功を認めつつも、それが不可観測者の実在性を保証するという考えには懐疑的な立場を取ります。反実在論者にとって、科学理論はあくまで観測可能な現象を予測し、体系的に整理するための道具(instrument)に過ぎません。これを「道具主義(instrumentalism)」と呼びます。理論が驚くほど正確な予測をすることや、多くの現象を説明できることは認めますが、それは理論が現実世界そのものを描写しているからではなく、単に「うまく働く」からだと考えます。
反実在論の強い根拠の一つは、科学の歴史における過去の成功した理論が、後に完全に否定された例が数多く存在することです。例えば、天動説は惑星の動きを非常に正確に予測できましたが、現在では誤りだと考えられています。フロギストン説や熱素説なども、一時的には多くの現象をうまく説明しましたが、最終的には棄却されました。反実在論者は、現在最も成功している科学理論であっても、将来的に同じ運命をたどる可能性があると考え、理論が語る不可観測者の実在性を安易に認めるべきではないと主張します。
特に、「構成的経験主義(constructive empiricism)」という立場は、科学理論の目標は「観測可能な現象について経験的に十分であること」に限定されるべきだと考えます。つまり、理論が観測結果と矛盾しない限りで受け入れ、不可観測者に関する部分は、真偽を判断できる対象とは見なさないという立場です。
哲学と科学の対話:異なるアプローチ、共通の問い
実在論と反実在論の対立は、単に科学理論の解釈に関する議論に留まらず、哲学における「実在とは何か」「知識はいかにして可能か」といった根源的な問いと深く結びついています。
-
哲学からの問いかけ: 哲学は古くから、我々が認識する世界が本当に実在する外部世界を忠実に反映しているのか、それとも我々の感覚や思考の構造によって構成されたものなのかを問い続けてきました。プラトンのイデア論、カントの現象界と物自体、近代哲学における経験論と合理論の対立などは、この実在を巡る問いの歴史の一部です。科学哲学における実在論と反実在論の議論は、こうした伝統的な問いを科学理論という具体的な対象に適用したものと言えます。哲学は、科学理論が依拠する前提(例えば、観測可能なものが全てか、因果関係の性質など)や、理論が持つ概念(時間、空間、粒子など)の整合性や意味を問い直し、実在論・反実在論の議論に概念的なフレームワークや厳密な議論の基準を提供します。
-
科学からの示唆: 一方、科学は哲学的な議論に対して、具体的な事例と実証的な制約をもたらします。例えば、量子力学の解釈問題(コペンハーゲン解釈、多世界解釈、ボーム解釈など)は、同じ数学的記述から出発しながら、不可観測者の実在性や性質(例えば、観測前の状態、非局所性など)について全く異なる実在論的な主張をします。これは、理論の経験的成功だけでは実在の姿を特定できない可能性を示唆し、反実在論に一定の説得力を与えるかもしれません。また、宇宙論におけるダークマターやダークエネルギーのような、現象を説明するために導入されたがその実体が不明な存在は、実在論者にとっては発見されるべき対象であり、反実在論者にとっては理論の構成物であるという解釈の違いを生みます。科学の具体的な発見や理論の変遷は、哲学的な議論の場で参照され、その妥当性を問う材料となります。
この対話において、科学は経験に基づいた具体的な知見を提供し、哲学は概念的な明確さと論理的な整合性を追求します。科学者は自らの理論が何を「語っている」のかを深く考察する際に哲学的な視点が役立ち、哲学者は科学の最新の知見を自身の議論に取り込むことで、より豊かな実在論・反実在論を展開することができます。
結論:理論の解釈を巡る問いは続く
科学理論が何を記述しているのかという問い、すなわち実在論と反実在論の対立は、科学の進歩と共に形を変えつつも続いていくでしょう。どちらの立場も絶対的な勝利を収めることはなく、科学理論の成功が実在論を後押しすることもあれば、理論の限界や予期せぬ観測結果が反実在論的な見方を強化することもあります。
研究開発に携わる皆様にとって、この哲学的な議論は単なる学術的な好奇心に留まらない示唆を含んでいます。あなたが日々構築し、利用している理論やモデルは、世界の実在をどれだけ忠実に捉えていると考えていますか?そのモデルが成功しているのは、それが実在を正確に記述しているからでしょうか、それとも単に特定の目的のためにうまく設計された道具だからでしょうか。あるいは、その両方の側面を持つのでしょうか。
この問いを自らに投げかけることは、理論の適用範囲や限界をより深く理解することにつながります。また、新たな理論やモデルを構築する際に、どのような種類の「実在」を仮定しているのか、その仮定がどのような哲学的な立場に基づいているのかを意識することは、より確固とした理論的基盤を築く助けとなるかもしれません。
哲学と科学の実在を巡る対話は、我々が世界の真理に迫ろうとする試みの中で、理論とは何か、知識とは何か、そして我々は何を知りうるのか、という根本的な問いを絶えず投げかけ続けます。これは、科学の frontiers を押し広げる上で、また自身の専門分野を深く理解する上で、避けて通れない知的探求なのです。