対話する真理

「定義」の科学と哲学:厳密さの追求とその限界をめぐる対話

Tags: 定義, 概念, 科学哲学, 認識論, ウィトゲンシュタイン

はじめに:科学を支える「定義」と現実の曖昧さ

科学の研究や技術開発において、「定義」は極めて重要な役割を果たします。対象を明確に定義することで、現象を正確に記述し、測定し、分類し、普遍的な法則を見出すことが可能になります。例えば、物理学における「力」の定義、化学における「元素」の定義、生物学における「種」の定義などは、それぞれの分野の基盤となっています。しかし、私たちが向き合う現実世界は、必ずしも明確に区切れるものではなく、曖昧で連続的な側面を持っています。

科学は、この曖昧な現実をどのように捉え、定義というツールを用いて理解しようとするのでしょうか。そして、哲学は古来より、概念や言葉が現実をどのように捉え、あるいは捉えきれないのかを問い続けてきました。本稿では、科学における「定義」の営みと、哲学が探求する「定義することの限界」に光を当て、両者の対話を通じて、私たちが世界を理解するための新たな視点を探ります。

科学における「定義」の営み:操作化と分類

科学は、観測可能な現象や測定可能な量を対象とすることが多く、それらを厳密に扱うために様々な方法で「定義」を行います。代表的なものが「操作的定義」です。これは、ある概念を、それを測定したり操作したりする方法によって定義するものです。例えば、物理学における質量の操作的定義は、特定の分銅との比較測定によって与えられます。心理学で「知能」をIQテストのスコアで定義するのも操作的定義の一例です(ただし、これが知能の本質を捉えているかについては議論があります)。操作的定義は、客観的な観測や実験を可能にし、科学の再現性と検証可能性を保証する上で不可欠です。

また、科学は対象を分類することで理解を深めます。生物学の分類体系(リンネ分類学に始まり、分子系統学へと発展)は、生命の多様性を秩序立てて理解するための定義と分類の試みです。化学における周期表も、元素を性質によって分類し定義したものです。これらの分類は、一見、明確な境界を持つように見えますが、生物の種の定義における曖昧さ(異種交配の可否、無性生殖生物など)、あるいは物質の相転移点における状態の連続性など、現実の複雑さや連続性に直面する場面も少なくありません。

現代科学、特にデータサイエンスやAIの分野では、「定義」の課題がより顕著になることがあります。例えば、機械学習においてデータにラベルを付ける際、「正常」と「異常」、「ポジティブ」と「ネガティブ」といった定義が必要です。しかし、現実のデータはグラデーションを持つことが多く、明確な線引きは困難を伴います。また、AIが学習する「概念」が、人間が使う言葉の概念とどれだけ一致しているか、AIが何を「理解」したと言えるのかといった問いも、「定義」の難しさと深く関わっています。

哲学が問う「定義することの限界」:概念の曖昧さと本質への問い

哲学は古くから、言葉や概念が現実をどのように捉えるのか、あるいは捉えられないのかを探求してきました。プラトンは、個々の存在の背後にある不変の「形相(イデア)」こそがその存在の本質であり、定義とはこの形相を捉えることだと考えました。これは、概念には揺るぎない本質があり、それを言葉で捉えることが可能であるという「本質主義」的な定義観の一つの源流です。

しかし、現実の多くの概念は、プラトン的な意味での明確な本質を持つわけではないように見えます。20世紀の哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは、『哲学探究』の中で、「ゲーム」という概念を例にとり、その共通する本質を定義しようとしても見つからないことを示しました。代わりに、ゲームと呼ばれる様々な活動の間には、共通する性質があるのではなく、網の目のようにつながり合った「家族的類似」があるだけだと論じました。この考え方は、私たちが日常的に使う言葉の多くが、厳密な必要十分条件で定義できるものではなく、曖昧な境界を持つことを示唆しています。

また、言語哲学では、言葉の意味が単独で存在するのではなく、他の言葉との関係性(差異)によって生まれることや、言葉が使われる文脈や社会的な実践によって意味が形成されることが議論されてきました(ソシュール、後期ウィトゲンシュタインなど)。これらの議論は、「定義」という行為が、単にモノの名前を定めるのではなく、言葉と世界、言葉と人間の思考や活動との複雑な関係性の中で行われることを明らかにしました。哲学は、「完璧な定義」を求めることの難しさ、あるいは不可能さを示し、私たちが言葉で世界を捉える際の根本的な限界や曖昧さに光を当ててきました。

科学と哲学の対話:厳密さと曖昧さの間の知

科学は再現性や普遍性を得るために、対象を明確に定義し、分類することを強く求めます。これに対し、哲学は概念や現実の曖昧さ、言葉による定義の限界を指摘します。一見、相反するように見えるこれらのアプローチですが、互いに問いかけ合うことで、より深い理解へと繋がる可能性があります。

哲学が提示する「定義の限界」は、科学者に対して、自身が用いている概念や分類が、現実の複雑さや連続性をどこまで捉えきれているのか、どのような側面を見落としているのかを問い直すきっかけを与えます。例えば、「生命」という概念に対する哲学的な問いかけ(生命の本質は何か、機械は生命と呼べるかなど)は、生物学的な定義(代謝、自己複製など)の有効性と限界を改めて認識させます。また、AIにおける「知能」や「理解」といった言葉を使う際に、それが操作的な性能の定義にとどまるのか、あるいは人間的な意味での知性や理解にどこまで迫るのかを哲学的な視点から考察することは、技術開発の方向性や倫理的な課題を考える上で示唆に富みます。

一方、科学的な定義の試みや分類体系の進化は、哲学的な概念分析に対して具体的な事例や新たな視点を提供します。例えば、神経科学における意識の状態の定義の試みや、複雑系科学におけるシステムの境界線の引き方などは、哲学が長年議論してきた「心身問題」や「全体と部分」といった問いに新たな経験的な知見をもたらします。科学が明らかにする自然界の連続性や、明確な分類が困難な中間的な状態(例: ウイルスは生物か無生物か)は、哲学的な本質主義的な定義観に対する現実からの問いかけとなります。

この対話は、科学が厳密な定義を通じて現象を操作可能なモデルに落とし込む営みと、哲学が概念の曖昧さや人間による世界の捉え方の限界を問い続ける営みが、互いに補完し合う関係にあることを示唆します。科学的な定義は世界の理解を深めますが、その定義が捉えきれない側面や、定義すること自体の性質については哲学が洞察を与えます。逆に、哲学的な問いは、科学がどこまで、どのように定義を進めるべきか、あるいは定義の困難さをどう扱うべきかについて、新たな視点をもたらす可能性があります。

結論:定義の必要性と限界を知る知

科学技術の進展は、世界をより精密に定義し、分類し、モデル化することを可能にしました。しかし同時に、複雑な現象や、人間自身に関わる問いにおいては、明確な定義の限界に直面することも増えています。AIが高度化しても、「意識」や「創造性」といった概念の定義は依然として難しく、データに溢れても「幸福」や「価値」をどのように定義し評価するかは容易ではありません。

科学における定義の厳密さの追求は、知識体系を構築し、技術を応用する上で不可欠です。しかし、哲学が問い続ける「定義することの限界」についての考察は、その科学的な定義が現実の全てを捉えているわけではないこと、そして私たちが用いる言葉や概念が持つ本質的な曖昧さを理解する上で重要な示唆を与えます。

研究開発に携わる私たちは、自身の専門分野における重要な概念が、どのように定義され、その定義にはどのような背景や仮定があるのか、そしてその定義が捉えきれていない現実の側面は何かについて、常に意識的である必要があるでしょう。科学的な定義の有効性を最大限に活用しつつ、哲学的な視点からその限界や曖昧さを問い直すこと。この両輪が、複雑な世界や未知の領域に挑むための、より深く、より柔軟な思考を育むのではないでしょうか。自身の研究や開発における「定義」について、立ち止まって考えてみることは、新たな発見やブレークスルーに繋がるかもしれません。