「誤差」は何を語るか? 科学の精密な計測と哲学が問う不確実性
科学技術の分野では、「誤差」は非常に身近で、かつ重要な概念です。実験データの不確かさ、計算結果の丸め、モデルの予測精度など、誤差は常に私たちの仕事につきまといます。多くの場合、誤差は小さく抑えるべきもの、管理すべきものとして扱われます。しかし、この「誤差」という現象は、単なる不完全さの表れなのでしょうか。それとも、真理に迫るための、あるいは真理そのものの性質に関わる、より深い何かを示唆しているのでしょうか。
科学は誤差をどのように捉え、哲学は不確実性や認識の限界をどのように問うのか。本稿では、「誤差」というテーマを軸に、科学と哲学それぞれの視点から真理へのアプローチを探ります。
科学における「誤差」の精密な追求
科学、特に物理学や化学、工学といった分野では、現象を定量的に記述し、予測することを目指します。そのためには、「測定」が不可欠です。しかし、いかに精密な測定器を用いても、測定値には必ず不確かさが伴います。これが「測定誤差」です。温度計の読み取り限界、電流計の内部抵抗の影響、時間計測の分解能など、誤差の原因は多岐にわたります。
科学は、この測定誤差を単なる「間違い」として無視するのではなく、むしろその性質を理解し、定量的に扱うことを試みます。偶然誤差(ランダム誤差)は、測定を繰り返すことで統計的に扱うことができ、系統誤差(システム誤差)は、原因を特定して補正するか、実験設計を改善することで低減を図ります。
さらに、科学理論の検証やモデル構築においても誤差の概念は重要です。ある物理法則から予測される値と、実際の実験で得られた値との間にずれが生じた場合、それは測定誤差によるものか、それとも理論やモデル自体に問題があるのかを慎重に判断する必要があります。統計学は、この判断を助ける強力なツールを提供します。例えば、データが特定のモデルにどれだけ適合しているかを示すために、カイ二乗検定などの統計的手法が用いられます。また、モデルのパラメータ推定においても、最小二乗法などを通じて、誤差(残差)を最小化する操作を行います。
現代科学では、誤差や不確実性は、単に避けるべきものではなく、「知っていることの限界」を示す情報として捉えられています。測定値は一点の値としてではなく、「ある範囲内に存在する確率が高い」といった形で表現されることが一般的です。例えば、物理定数の値は、必ず「値 ± 標準誤差」のように、中心値と不確かさの範囲をセットで報告されます。量子力学における不確定性原理も、特定の物理量の組み合わせ(例えば位置と運動量)を同時に任意精度で決定することは不可能である、という形で「知ることのできる限界」を原理的に示しています。
科学は、誤差を定量的に扱い、それを乗り越える、あるいは管理することで、より確実な知識体系を構築しようとします。誤差を理解し、分析することは、科学が真理へ一歩ずつ近づくための、欠かせない手続きなのです。
哲学が問う不確実性と認識の限界
一方、哲学は、真理そのものの性質や、私たちがどのようにして世界を認識し、知識を得るのか、といった根源的な問いを探求してきました。この探求において、「不確実性」や「不完全性」は、常に重要なテーマとして現れます。
古代ギリシャ以来、多くの哲学者は、感覚によって得られる知識の不確かさについて論じてきました。プラトンは、感覚世界は常に変化し不完全であると考え、真の知識(エピステーメー)は、感覚を超えた不変のイデアの世界に関わるものだとしました。アリストテレスは現実世界を重視しましたが、個々の存在は質料と形相の結合体であり、常に生成変化の中にあります。
近世哲学では、経験主義(ロック、バークリー、ヒュームなど)が、私たちの知識はすべて経験に由来すると主張しましたが、ヒュームは経験から普遍的な法則を導くこと(帰納)の論理的な正当性を疑問視し、知識の確実性について懐疑的な立場をとりました。合理主義(デカルト、スピノザ、ライプニッツなど)は、理性によって確実な知識を得ようとしましたが、感覚世界との隔たりという課題を抱えました。
イマヌエル・カントは、経験と理性の両方の限界を考慮し、私たちは「物自体」(Ding an sich)、すなわち私たちから独立して存在する世界の真の姿をそのまま認識することはできず、私たちの認識能力(感性や悟性)の形式を通してのみ世界を把握できる、と論じました。これは、私たちの認識には構造的な限界があり、ある種の「誤差」や「歪み」が本質的に伴う可能性を示唆しています。
現代哲学、特に認識論や科学哲学においても、知識の正当化、信念の確実性、理論の検証可能性といった文脈で不確実性は中心的なテーマです。科学が統計的手法を用いて不確実性を定量化し管理しようとするのに対し、哲学は不確実性が人間の知識や存在そのものにいかに深く根差しているのかを問い直します。完全な知識や絶対的な真理に到達することの困難さ、あるいは不可能さを受け入れつつ、その中でいかに意味を見出し、判断を下し、行動するのか。哲学は、不確実性を技術的に克服するのではなく、それと向き合い、その意味を理解しようと試みるのです。
科学と哲学の「誤差」をめぐる対話
科学と哲学は、「誤差」という現象に対して異なるアプローチをとりますが、両者の間には興味深いつながりが見られます。
科学は、測定や観測に伴う誤差を精密に分析し、統計的手法を用いて不確かさを定量化します。これは、完全な真理を直接捉えることはできないが、可能な限りそれに近づき、その確実性の度合いを評価しようとする試みと言えます。科学のこの営みは、哲学的な問いかけに応答しているかのようです。「私たちはどこまで確実に世界を知ることができるのか?」という哲学の問いに対し、科学は「測定誤差や統計的な不確かさを伴うが、これだけの信頼度で知ることができる」と、具体的な手法をもって答えているかのようです。
一方で、哲学が指摘する人間の認識の限界や、世界そのものに内在するかもしれない不完全性・不確定性は、科学が直面する誤差や不確実性に対する新たな視点を提供します。例えば、量子力学の不確定性原理は、単なる測定技術の限界ではなく、物理法則の根源的な性質として不確定性が組み込まれていることを示唆しており、これは哲学が長年問い続けてきた「世界の基底にあるものは完全か不完全か」「真理は決定されているか」といった問いに、科学が具体的に触れ始めているかのようです。
また、科学が複雑な現象をモデル化する際に inevitable に発生する「モデル誤差」は、哲学的な意味での「現実の完全な把握は不可能である」という認識と響き合います。モデルはあくまで現実の近似であり、何らかの側面を捨象することで成り立っています。誤差は、この近似の度合いを示しており、完全な真理ではなく「有用な近似」を追求するという科学の現実的な姿勢を浮き彫りにします。
科学が誤差を分析し、それを管理・低減することでより確実な知識を構築しようとする技術的な営みは、哲学が問いかける「真理への道」の一つを示しています。そして、哲学が不確実性や不完全性を人間の条件や世界の性質として深く考察することは、科学が見出す誤差や不確定性の根源的な意味を問い直し、私たちが追求する「真理」がどのような性質を持つのかについて、より豊かな理解をもたらします。
誤差から得られる示唆
「誤差」は、単なる間違いや不完全さの印ではありません。科学においては、それは真理に近づくための手がかりであり、知識の確実性の度合いを示す情報です。哲学においては、それは人間の認識の限界や、世界そのものの不完全性を示唆する鏡であり、絶対的な真理への謙虚な姿勢を促します。
研究開発の現場で、私たちは常に誤差と向き合っています。測定値のばらつき、シミュレーション結果のずれ、モデルの予測誤差。これらを単に「ノイズ」として片付けるのではなく、「この誤差は何を語っているのだろうか?」と問い直してみることは、新たな発見や洞察につながるかもしれません。誤差のパターンから、システムに未知の要因が潜んでいることに気づく、あるいは理論モデルの隠れた前提に疑問を持つ。これは、科学的な探求を深める上で非常に重要な姿勢です。
そして、哲学的な視点から見れば、誤差は「完全ではない」という私たちの立ち位置を思い出させてくれます。絶対的な確実性を求めることは困難であり、不確実性の中で最善の判断を下す能力こそが求められるのかもしれません。自身の研究成果や、そこから導かれる結論が、どの程度の不確実性を伴うのかを認識し、それを踏まえてどのように社会に還元していくのか。この問いは、技術開発に携わる者にとって、倫理的かつ哲学的な課題でもあります。
科学は誤差を定量化し、管理する技術を発展させ、それによって真理に近づきます。哲学は誤差や不確実性を存在論的、認識論的な視点から捉え、真理の性質や私たちの知識の限界を問い直します。この二つのアプローチは、互いに異なる言語を用いながらも、「完全ではない世界」における「真理の探求」という共通の課題に取り組んでいます。
あなたの研究活動において、誤差はどのような意味を持っているでしょうか。それは単に排除すべきノイズですか、それとも世界やあなたの認識について何かを教えてくれている手がかりでしょうか。不確実性の中で最善を尽くすとは、具体的にどのような姿勢を指すのでしょうか。科学と哲学の対話は、このような問いを私たち自身に投げかけてきます。